私は1953 年に和寒町で生まれた。和寒町は北海道のほぼ真ん中にある。
電気も水道もなく、学校もなかった。父は荒れ果てた土地を3年かけて畑にした。私が生まれて歩けないことを知り、鍛冶屋に行き、車いすと歩行器を作ってくれた。母は旭川や札幌に出かけて行き、リハビリを習った。両親の温かいリハビリのおかげで私は歩けるようになった。8歳で札幌に引っ越してきた。土に転んでも痛くなかったが、コンクリートはものすごく痛い。人々の視線も厳しく感じた。それでも両親はリハビリを続けてくれた。そしていとこや友達やボランティアも、リハビリを行ってくれた。今もヘルパーさんがストレッチ体操を行ってくださっているので、私の関節は柔らかい。リハビリをすると転んでもケガをしにくくなる。服も着せやすくなる。3 食と同じくらい大切なことだ。
ずっと私はたくさんの人たちの思いやりでリハビリを続けてくることができた。息子も理学療法士になってくれた。今の秘書も作業療法士であり、リハビリのしかたを少し変えてくださり、ほかのヘルパーさんに伝えている。最近は肩や背中が楽になり、よく眠れる。これこそ、大切なケアの一つだと思う。障がいがある人は、多くの人々にバトンタッチされながら生きていく。そのストーリーはドラマチックである。
ケアする人の手を温かく感じたり、冷たく感じるときがある。ケアを受け、気持ちがよいときには、私はなるべくはっきり感じたことを伝えている。そのことが重度障がい者にとって大切な仕事だと思う。言葉で言えない人は、視線や笑顔でケアを受けている感想を伝えているはずだ。この感触をお互いに伝えていくことが最も重要なケアのあり方だと思う。かわいそうだからケアをやってあげるという気持ちでは、互いに心が進歩しないと思う。ケアの受け手側は、どのようにしたら気持ちがよいか言葉にすることを考えなくてはいけない。互いに理解し合い、尊敬することがケアの第一歩かもしれない。私たちは常にその仕事を続けていかなければいけない。