私の膀胱の調子が悪くなってきている。どこに行くときも障がい者用トイレがあるかどうかをまず考えてから、動かなければいけない。最近はカテーテルというものをあてて、管から尿を出している。「トイレに行かなくてもよいから安心かな?」と考えていたが、まったく違った。ちょっとの動きで管が折れ曲がったりよじれたりすると、尿が止まってしまう。膀胱に入れた管の先にあるバルーンは、小さな風船のような形で痛くないように見えるが、少しでも位置が変わると痛くて悲鳴をあげたくなる。
ヘルパーさんが10人くらい来てくださっているが、カテーテルのことを言葉で伝えるのには限界がある。首が緊張しすぎて不随意運動が起きてしまい、下を向けないため、管を固定するテープの位置を指示できないときもある。言葉だけの引き継ぎには限界があり、やり方を覚えたヘルパーさんが次に来たヘルパーさんに伝えることが大切だ。ケアが複雑になってくると、ヘルパーさんたちに辞められるのではないかと不安にかられるときがある。しかし私がパニック状態になっても、ヘルパーさんたちは落ちついていろいろ言うとおりに動いてくださるので、ありがたく思っている。
私は身体を酷使して生きてきた。人生において何度も大きな病気を繰り返しながら、札幌いちご会というNPO法人を今も運営している。ちょっと弱気になっているので、「やめたいな」と思うときもある。しかし、いちご会がなければいろんな情報を手に入れて心地よく生きられない。だから生きるために、働かなければいけない。カテーテルを入れる前は、ヘルパーさんがいない時間の孤独を楽しんでいるときもあった。独り言を言ったり「ばかやろー!」と叫んでみたりすると、胸の中がスーッとするからだ。しかしヘルパーさんが入ってくださる時間数が足りなくて、バトンタッチ方式(ヘルパーさん同士が顔を合わせて引き継ぐこと)にはできず、ヘルパーさんのいない時間が恐ろしくなってきている。
カテーテルが今後どうなるか、わからない。首と肩も、不随意運動が強まり痛くてたまらない。この原稿を書いているときも、膀胱の中がチクチク痛くなり、今日はどのようにして寝ようか悩んでいる。しかし、忙しい時間を割いて来てくださるヘルパーさんたちの笑顔を見ると、「前向きに生きなければいけない」と動かない手で自分の胸を叩いている。苦しみの中でこのような原稿を書くのも、私の大切な仕事だと思う。ケアをしてくださる人たちに感謝をして、明日からも喜びと悲しみと痛みを繰り返しながら生きていこう。