1977年に「札幌いちご会」は、「どんなに障害が重い人でも地域で生活をしたい」というキャッチフレーズを掲げ、障害者自身が寄付金を集めて自立生活運動を始めた。
最初はすべてボランティアの力で活動をしていた。私の部屋が事務所代わりとなり、父は他の障害者の送迎を手伝っていた。母はカレーライスやブタ汁をたくさんつくり、ボランティアの方々にご馳走していた。若い男女がたくさん来てくださり、毎日、合コンの世界であった。そこで多くのカップルが生まれ、結婚した人もいる。その様子を私は遠くで見ていた。(私も恋をしたいな。でも、何もできないから無理かな)と心が冷たくなった。しかし、片思いはたくさんしてきた。
毎月のように北海道や札幌市に要望書を書き、お役人に会いに行った。「やぁ!!みっちゃん、今日も来たのかい? 今度はなんだい? 今日は忙しくて30分だけだよ」と言って笑っていた。「30分だけじゃダメよ。暗くなるまで話し合いましょう。地下鉄ができ、エレベーターの場所も決まっているのに、いつつけてくださるの? 私たちは地下鉄に乗るたびに車いすをお客様に抱えてもらい命がけよ」と言って要望書を書く。
1980年前後だっただろうか、札幌市にホームヘルパー制度がやっと生まれた。しかし、週に1~2回、朝の9時から3時頃までであった。この時間帯では役所にも行けず仕事をする時間がない。ヘルパーの資格を持たない人たちにもケアをしていただこうと思い、ケアのチケット制度をつくった。これは私たちにとって大変都合のよいものであった。
アメリカの障害者運動家であるエロ・ロバーズ氏は寝たきりで電動車いすに人工呼吸器をつけ、世界中を講演して歩いていた。彼が笑みを浮かべて発した言葉がある。「親がかりの福祉は捨ててください。障害は力である」。その言葉が私の心を燃やした。親に甘えることなく、ケア制度をつくらなくてはいけないことを確信した。 激しい戦いの幕開けだ。