2017年11月14日、札幌は枯れ葉が舞い散る季節、北海道大学の作業療法学科に講義をしに行きました。障がい者が講義をすることは、ほとんどないと聞きます。
講義では、18人の学生に向けて、私の生きてきた歴史を話しました。9歳のときに入った施設はまるで刑務所のような場所。そこでは子供たちが常に怯えて生きていたのです。脳性まひの人間は、静かなところでリハビリを行わなければいけないという理由から、物置部屋を改造した訓練室のような場所でリハビリを行っていたのですが、そこは虐待部屋のようでもありました。手首を外側に曲げ、指が腕にくっつくまで折り曲げられたり、股を直線に開かせたり、足をおでこにくっつけたり…。まるでバレリーナにでもなれ、といった感じのリハビリでした。
しかしその場所で出会ったアメリカまで脳性まひの勉強をしに行った作業療法士の先生だけは、私の障がいについてきちんと説明してくださいました。今日できていたことが次の日できなくなると、他の職員からは「怠けているでしょ! ずるいんじゃない?」と言われましたが、その先生だけは違いました。「美智子ちゃんはね、脳性まひの痙直型とアテトーゼ型の混合型なんですよ」と教えてくださり、毎日私の障がいは失調しているので、「できていたこともできなくなるのは当たり前なの」と話してくださったのです。子供の時、自分の身体に何が起こっていることを誰にも説明できませんでした。でもやがてできるようになり、その作業療法士の先生には感謝しているということを学生さんたちに語りました。
「ここにいる皆さんは、障がい者の方と触れ合ったことのある人はいますか?手を挙げてください」と聞くと、学生さんたちは上を向いて一生懸命考えていましたが、誰も手を挙げません。障がい者と遊んだり、お喋りしたことのない人たちが作業療法士の勉強をして、作業療法士になっている事実を知り、私はとても残念に思いました。
1979年に、障がい者が義務教育を受けられるようになりました。大変喜ばしいことですが、養護学校ができてしまったので、障がい児と障がいのない子が一緒に学ぶ空間がなくなってしまいました。支援学校ができると、障がい別に分けられてしまいました。デンマークで見た、障がいのある先生に生徒さんがご飯を食べさせている風景を思い出します。「このようなことが大切な勉強なのですよ」と言われたのを思い出します。こういう風景を日本でたくさんつくっていかないと、ヘルパーの存在意義と必要性は理解されず、社会一般の人たちが肌で知ることはできません。いつかそういう日が来ることを願い、夢を持って私は生きようと思います。