私は戦後の1953年に生まれた。両親は北海道の真ん中のあたりの和寒町で農業と酪農を行っていた。父の兄が戦死したので、弟である父が土地を受け継いだのである。父と母は死に物狂いで働き、私を育ててくれた。脳性麻痺という障がいで私は座っていることができなかった。床に寝そべり窓の雲を眺めていた。雲はお菓子の形になったり、象の形になったり、想像するとどんな形にも見える。それが、私が覚えた最初の遊びだ。
母は札幌まで行き、リハビリの勉強をしてきた。ランプの下で私は寝かされ、両親が左右に座りリハビリを行ってくれた。ランプの光が鮮やかに記憶の中に残っている。父は鍛冶屋に行き歩行器と車いすを作ってくれた。母にあぜ道を無理やり歩かされ、私は少しずつ歩けるようになった。
両親に何をしてもらっても「ありがとう」と言ったことはない。両親の手は私の手足だったので、お礼は言わなくてもよかった。しかし、札幌の施設に入ると、何か職員にしていただいたとき、「ありがとう」と必ず言わないと叱られた。時間が経つにつれ、「ありがとう」は反射的に口から出るようになっていた。心の底から言っているときもあったが、何も考えないで言っていることも多かった。25歳のとき、1人のヘルパーさんが「小山内さん、ありがとうを何回も言わないで。私はあなたのしてほしいことを行っているのだから。障がいのない人は自分の手にありがとうと言っている?」と言ってくれて私の心は少し軽くなった。
多系統萎縮症の患者さんが、安楽死を求めてスイスで死んでしまったドキュメンタリーを見た。障がい者団体や医療関係者からバッシングがあった。まだ生きられるのになぜ命を絶ったのかを私も考えた。1つだけ胸を突き刺した言葉がある。「私はそのうち、声も出なくなる。ありがとうと言えなくなる。感謝の言葉を相手に伝えられない」。私はそれを聞いて、胸が痛くなった。自分もいつしか同じようになるのかもしれない。最近はちょっと言葉が出にくい。「ありがとう」と言えない世界がおそろしくなった。「ありがとう」の表現はいろいろある。同じ障がい者で舌を出すことで「ありがとう」と表現する人がいる。まわりの人たちが「わかったよ。いいんだよ。一回一回言わなくても」とほほ笑んで言う。安楽死を選んだ彼女がもし、たくさんの障がい者に会って「ありがとう」の言い方を学んでいたなら、命を全うできたかもしれない。なぜそばに同じ障がいを持った人たちがいなかったのか。それが残念である。番組の終わりに彼女の姉妹が桜の木の下でインタビューを受けていた。春風に桜の花が揺れていた。その花びらは彼女の涙に見えた。その景色が目に焼きつき、目頭が熱くなった。「悔しいな、なぜ死んじゃったのよ。もっと生きたかったでしょう」とスイスのほうを見て祈る。