恩田玲子さん(84歳、仮名、女性、要介護1)は夫の政夫さん(85歳、仮名、男性、要支援1)と二人暮らしです。玲子さんは認知症で記銘障害や見当識障害があります。夫は加齢に伴う腰痛や膝関節痛で、歩行やかがむことが不自由です。長女が隣町にいて買い物や受診の付き添いをしています。訪問介護サービスは週3回、掃除・調理。デイサービスは週3回、夫は週1回利用。2階建てに住み、1階を中心に暮らしています。
ある日お宅を訪問すると、政夫さんは穏やかな表情で玲子さんの行動を見守っていました。「今日は何を作りましょうか」「そうだな、お母さんの好きな天ぷらを」と政夫さんが言うので、冷蔵庫の中を確認していると、玲子さんが玄関のほうにつぶやきながら歩き出しました。政夫さんが声をかけて、二人は話し始めますが、内容はかみ合わないままです。そのうち玲子さんが椅子に座り会話が途切れました。様子を見ながら昔の生活歴から話題を投げかけ、会話が再開しました。
しばらくすると、政夫さんが「いつものことだけど、もう我慢ができない」と言いました。玲子さんは以前から話好きだったせいか次々と話題が出てきますが、一方的で聞く側は疲れます。それでも政夫さんは根気よく話を合わせていました。天ぷらができあがり、テーブル拭きを玲子さんに、配膳を政夫さんにお願いし、向かい合っての食事が始まりました。話題は天ぷらになり、「かき揚げがおいしい」と二人が一致して顔を見合わせます。その間にお風呂やトイレの掃除をしてテーブルに戻ると政夫さんがトイレへ向かっていました。玲子さんに「お味はいかがでしたか」とたずねたところ、「いつも親切にしてくれる優しい人なの、いつまでいるのかな」と、政夫さんのことを他人と思っている様子。しばらくすると政夫さんが戻り、「賢い人だったのにね…」とポツリ。何て答えてよいかわからないまま、そっと肩に触れると、手を強く握りしめているのか、強張った感じが伝わってきます。
政夫さんは家族会や学習会などで、認知症が進んでいくことやその対応についてはかなり理解されていますが、次々に起こる想定外のことに心労は抱えきれないほどです。「いつまで続くのかなあ」とつぶやく政夫さんに返す言葉もなく、その重さに押しつぶされそうになり、黙って頷きながら、二人にほうじ茶をいれると、玲子さんが「おいしいお茶ね」と。政夫さんは「うんうん」と笑顔で返していました。