母の手は私の手。手が動いた経験がない私は、母の手で生きてきた。考えたことは母がすべてケアしてくれた。しかし、中学校2年生のとき、母は働きすぎて入院してしまった。思春期の私は父にトイレを手伝ってもらうことに抵抗を感じた。もし母が先に死んでしまったなら、私はもうこの家では過ごせないことを強く感じた。
「山奥の施設に行こうか、死んでしまったほうがよいのかもしれない」と恐怖感に怯えた。しかし、父の商売のアルバイトに来ていた女性がトイレやお風呂や着替えを手伝ってくれた。(あぁ、母が入院しても私は生きられるのかもしれない)と漠然に感じ取った。母が元気になり退院してきて歯をみがいてもらったり、顔を洗ってもらうと(あっ!!この手はやっぱり私の手だ)と心が踊った。でも、この手とはいつかお別れしなければいけない。たくさんの友だちを探して生きていかなくてはいけない。と強く感じた。髪のセットも化粧も、母の手で別人のように変わった。
その時代、ホームヘルパーという言葉がまだなかった。しかし、マスコミや障害者団体の会報から介助制度のことが少しずつ見えてきた。母の手を借りながらいろいろな人の手も借りて生きていかなくては私の人生は楽しくはならないと感じた。そういったことを経験し、20歳前後から日本や全世界のケア制度を学ぶようになったのである。
私の手は母の手。しだいに私の手は優しく心豊かな人の手に変わってきている。時には逞しい男性の手が私の手になってくださったこともある。楽しい青春の思い出であった。私が豊かに生きるということはそばにいる人の手を私の手にすることだ。
足に指が10本ついている。なぜだろうか?いつも考えた。9歳のころ、友だちと鈎針で編み物をしていた。私はそれを借り、足で編んでみた。大成功した。母に針と毛糸を買ってくるように頼んだ。首を傾げた母は、私が編み物を始めると涙をこぼして「よく考えたね。ありがとう」と私の足を撫でた。熱く楽しい思い出になっている。