へるぱ!

季刊へるぱ!インタビュー

町 亞聖(まち あせい)

フリーアナウンサー

SOSを自ら発せないヤングケアラーの子どもたち
かつて同じ立場であった私が今、社会に感じる課題
ある日突然、親の介護を担うことになるヤングケアラーの子どもたち。以前の「当たり前で平穏な日常」を取り戻せないまま日々を送り、SOSすら出せずに社会に埋没しているケースも多いという。
国も本腰を上げ始めたヤングケアラー支援。かつて親の介護を担った町さんの10年間もヤングケアラーとしての日々だった。町亞聖さんに当時の気持ちや望まれる支援の方向性について伺った。

高校3年生で母のケアだけでなく一家の柱としての役割も担うことに

――昨年の1月に厚生労働省主催で、「ヤングケアラーについて理解を深めるシンポジウム」が開催され、話題になりました。町さんは10代の後半から、10年間にわたり、お母さまの介護をしていらした経験がおありですが、ご自身も「ヤングケアラー」だったんですね?

 はい。私が18歳で高校3年生のとき、母がくも膜下出血で倒れ、その後脳梗塞も併発して車いす生活になりました。それから約10年間、家の中のこと…食事の支度や掃除、洗濯から弟妹たちの世話まで、すべて長女の私が担ってきました。あのころを振り返ってみると「そうか、私もヤングケアラーの一人だったんだな」と再認識しています。
 母が倒れたのはまだ40代のとき、当時父も若かったので、本来なら中心になって家族を取りまとめてくれるはずが、家の中のことは何もやってくれない。母のことも含め、弟妹たちの世話から進路に関する三者面談まで、私一人で対応していました。
 当時は自分がヤングケアラーだというような認識はまったくなくて、「他に選択肢がない、逃げ道はない、自分がやるしかない」と、毎日を送ることだけで精一杯でした。
 重い障害を負った母は、長期のリハビリを経て自宅に戻ってきましたが、病院とは違いバリアだらけの環境の中で、できることを一つずつ増やしていきました。退院してからが本当のリハビリの始まり。大変なこともありましたが、創意工夫することで発見や気づきが多く、楽しく前向きに取り組むことができました。むしろ問題は父のほうで、お酒を飲むと人が変わってしまうことがあり、子どもに暴力は振るわないものの、飲んではちゃぶ台をひっくり返すことも。当時、経済的な不安もありましたが、生活費のやりくりまで、高校生の私が行っていました。

――そのことを相談したりする人はいましたか?

 いいえ。学校の先生も含めて誰にも相談する気にはなれませんでした。唯一救いだったのは、母の親友で近所に住んでいた「山田のおばちゃん」。何かにつけて私たちのことを気にかけてくれたのが支えでした。
 「何で私だけ?友だちは皆、すべての時間を自分のために使っているのに…」と思ったりもしました。ただ、介護に直面している現実から目をそらしたり、障害を負った母を受け入れられないままでいることは、母の存在をも否定することになります。ですから、今私のやっていることはムダじゃない、いつか将来につながるはずと、自分の置かれた状況を肯定的に捉えるように努めていました。

ヤングケアラーへの支援はソーシャルワークの視点が大切に

――国でもやっと本腰を入れ始めたヤングケアラー支援についてどう感じていらっしゃいますか。

 ここ2年ぐらいの間に、「ヤングケアラー」という言葉がクローズアップされるようになり、可視化が進んで、多くの人から認知されるようになったことは、すごく大きいと思います。
 現在、厚生労働省と文部科学省が協働で、ヤングケアラーに関するさまざまな取り組みを始動させていますが、法律的な定義に至るにはまだまだこれからです。とても大事なことなので、丁寧に議論を進めていってほしいですね。
 そして、そういう子どもたちの多くが、さまざまな背景を背負っているのだという理解がもっと進むといいですね。介護の負担を、生活援助などの介護サービスを入れて補完するから、子どもであるあなたは学業に専念していいですよ、と言われたところで、本人たちの困りごとが解決するような単純なことではありません。精神疾患を持つ親の代わりに家のことを担っているヤングケアラーは介護保険の対象ではありません。その場合は子どもに対する支援だけでなく、親に対するケアや子育て支援など柔軟で重層的な支援が必要になります。
 かつての私がそうだったように、自ら「助けてほしい」と声を上げられない子どもがたくさんいます。当事者が何に困り、どんな暮らしを望んでいるのか、その声に耳を傾けてほしいです。

――利用者宅でそういった子どもに出会うかもしれないヘルパーが、これからできることは何でしょう。

 もしヤングケアラーの子を見つけたら、まずは声をかけて、何気ない会話を交わしてください。いきなり「何か困っていない?」と言われても当惑するだけです。まずは信頼関係を築くこと。傾聴の姿勢で、この人なら話せるという雰囲気をつくり、しかるべき連携先につなぐことが重要です。学業の悩みならば教育関係者との連携が必須であり、ヘルパーの方もそういったネットワークに日ごろからアンテナを向け、子どもたちの心を開く糸口となっていただければ幸いです。
 私もそうでしたが、介護や母との暮らしから学んだことは数えきれないほどあり、自分にとってかけがえのない時間でした。ただ学業や子どもとしての日常を諦めなければならないほどのいっぱいさを、どうサポートして、本来の自分らしい生活を取り戻せるのか。そのために役立つアプローチが必要です。
 ヤングケアラーも大人になります。自分自身で納得して将来を選択し自立できるようにする、そんなソーシャルワーク的視点からの介入、伴走型の支援が今、求められています。
 国は、超高齢社会の担い手として、多くの若い介護人材を投入しようとしています。しかしやがては高齢化にストップがかかって、その大量の人材が次にどこへ行くか。高齢者介護の先を考えたときに、どんな状況であっても「その人らしく生きる」を医療や介護が連携して支援する地域包括ケアシステムをどう活かすかが鍵になると私は考えています。高齢者介護にとどまらず、ヤングケアラーや医療的ケア児など、まだまだ支援が足りていない当事者たちがいます。ヘルパーさんや介護福祉士の方たちは、傾聴のプロです。心を開くためのゲートキーパー的役割を担い、受け止めてつないでいく存在になっていただけたら、と感じています。

町 亞聖

フリーアナウンサー

1995年日本テレビにアナウンサーとして入社。その後、報道局でキャスター、厚生労働省担当記者としてがん医療、医療事故、難病などの医療問題や介護問題を取材。2011年フリーアナウンサーに転身する。脳障害のため車いすの生活を送っていた母と過ごした10年間を描いた『十年介護』(小学館文庫)を出版。医療と介護を生涯のテーマに取材・啓発活動を続ける。直近では念願だった東京2020パラリンピックを取材。ラジオ日本「町亞聖のスマートNEWS」、ニッポン放送「ウィークエンドケアタイム

 

トップページへ