へるぱ!

今なら語れる「障害を越えて」

第3回 2015年10月30日 14時52分

今年も3月11日、14時46分、東日本大震災の日が訪れました。毎日平和に暮らしていたなか、突然震災に巻き込まれ、今も不自由な避難生活をされている方達が多くおられます。私も昨年10月30日、14時52分に思いもよらぬ事故に遭遇し、平和な生活を脅かされました。

2015年11月2日付、読売新聞の朝刊32ページの社会面、『ドアに白状はさみ列車発進、障害者男性が転び重症』という見出しでこのような記事が掲載されました。

「茨城県守谷市の関東鉄道常総線守谷駅で10月30日、上り普通列車(2両編成)が、視覚障害のある同県取手市の男性(74)の白杖(はくじょう)をドアに挟んだまま発車し、転倒した男性が左腕骨折などの重傷を負っていたことがわかった。同社は運転士の確認不足を認めて男性側に謝罪、国土交通省に事故概要を報告した。取手署も事故の状況を調べている。同社などによると、事故は30日14時50分頃に発生、男性は白杖のひもを手首にかけていた為、引っ張られて数メートル先で転倒、杖はその直後にドアから抜けた。男性は一人で乗車しようとしていた。列車はワンマン運転で男性運転士(38歳)は後方をミラーで確認したが男性に気付かず、ホームに駅員はいなかった。同社は発車時安全確認に規定違反がないかを調べており、杖が細く、ドアのセンサーが検知しなかった可能性があると説明している。」

この74歳男性とは私のことです。警察が入りましたが、記事が掲載されたのは事故3日後のこと。私は不信感を募らせました。

この日は、長女が仕事先の岐阜から久しぶりに東京ディズニーランドへ遊びに来た日でした。午前中はディズニーランドでのひと時を娘たちと楽しみ、午後は体調のことを考え、ひと足先に一人で帰宅することに。

視覚障害者の私にディズニーランドのスタッフは、園内のモノレールからJR駅乗車まで親切に対応してくださいました。車中では、乗客の方にもガイドヘルパー役をしていただき、無事につくばエクスプレス最後の乗換え、守谷駅にも到着。駅のエレベーターホームで、次の電車は10分後であると居合わせた乗客から教えてもらい、缶コーヒーを自動販売機で買い求め、車掌が乗車する後方車両へと歩き、飲みながら到着を待ったのです。

その後、電車到着の案内放送があり、2両編成の列車が入線。ドアが開いたので、ドアの高さを確認するための白杖を電車内の床に突いた途端のことでした。突然ドアが締まり、乗車できないまま、列車は出発してしまったのです。

白杖がドアから抜けなかったため、頼みの綱は、最後部に乗車する車掌が現状に気付いてくれること。急停車してドアを開けてくれることを期待しながら私は列車と併走する羽目に。この時はワンマン運転であることを知る由もありませんでした。結果、救急車で担ぎ込まれ、全治1年の思いがけない重傷に、現在もリハビリ通院中です。原因は先に記載された運転士の確認不足であることには間違いないですが、今後の自衛方法に悩んでいます。

現在、都心の地下鉄もワンマン運転が常識であると知り、驚いています。これまでの研修では、「最後部にいる車掌がドアの開閉をしているため、安全に乗り降りできる」とすすめてきましたが、この大きな変更に戸惑いを隠しきれません。また同時に、今後の視覚障害者の一人外出に赤信号が出たことにも気付かされたのです。

社会の合理化促進のたびに、自立に向けての目標ハードルが高くなっていっていることを実感します。10月30日14時52分の出来事も、一生忘れられない私の記憶に加わったのでした。

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コラムニスト紹介

山田 猛

ガイドヘルパー(視覚障害者)

プロフィール

1941年 中国・元満州国安東省生まれの引揚者。

1969年 立正大学経済学部を卒業後、運輸会社へ入社。航空貨物部門で海外宅配便と新規事業開発で書類宅配便クーリエサービス業務の立上げの責任者となる。のち、ISO品質管理室長として全国支店を飛び回り指導に励む。また会社品質向上を担当。

2000年9月 定年半年前に角膜移植手術を受けるが、移植に失敗。強度の視力障害を持つ中途失明者となる。
定年後、第二の人生設計を立てていたところに抱えた大きな障害。生きる希望をも見出せず失望の淵に立たされた時期を乗り越え、現在、同じ境遇の人たちを救うため介護福祉について勉強中。

介護を受ける立場にかかわり、介護をされる皆様に何を求め、また考えているかを視覚障害の症状、環境変化がありすべての方の問題とか解決策とはなりませんことをご理解頂き、あくまでも私個人として利用者が感じた点を記述してみたいと思います。

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