へるぱ!

介護から学んだこと

第13回 忘れられない大切なこと       2015/11/12

 

 大野ユキさん(86歳・仮名・女性)は、15年前に夫が亡くなり、その後ひとり暮らしです。訪問介護が週3回、デイサービスを週2回利用。近県に住む娘さん2人は、交代で母親宅に訪れます。自分で食べること、レンジで温めること、トイレに行くこと、着替えはできるものの、買い物や調理はできません。徐々に身体機能が衰えてきている状態です。

 

 娘さんたちが同居を促しても、「ここにいたい」という意志が強く、知人や近隣の方々が「お互いさまよ、いずれ私も誰かの世話になるのだから」とゴミ出しや庭の草取り、家周りの掃除、お茶飲みなどに協力してくれているため、何とかひとりで暮らし続けています。大野さんも「悪いわね」と言いながら、近隣とのふれあいを楽しんでいるようです。近所の方が顔を見せるから、お化粧をしたり、着るものにも気を遣っているようにも思えるし、元気でいようと意欲も湧くのだと思います。

 

 大野さんは、ときどき独り言のように「123-456-7890」と数字をぶつぶつ言います。いつも同じ数字なので、何のことかと不思議に思っていました。そこである日、いつものようにつぶやいているので尋ねたところ、「あら、聞こえてしまった? この番号は忘れてはいけない番号なの」と言います。その時は何だか悪いなあと思い、それ以上は聞きませんでした。

 

 季節が変わり、大野さんの体調がすぐれない日が続きました。娘さんたちが心配しても「ここにいる」と言うため、サービスの回数が増え、必然とあの数字を聞く機会が増えたのです。「大切な番号なのですね」と私が言うと、「これはね、この家の電話番号なの。主人がこの家を新築したときからの電話番号だから忘れてはいけないの。忘れてしまうことが増えて、とっても心配。でも、これだけはどんなことがあっても忘れてはいけない、だから声に出して言うようにしてるの。変でしょ、でも心配なの…」と。他者から見ると、ぶつぶつ言って少し変なのかなと思うかもしれませんが、人にはそれぞれ生きてきた大切な過去があり、それをもとに生きている現在があり、それが継続しながら未来につながっているのだなあと実感しました。

 

 その人の生活史が日々の暮らしのなかに根付いていることを忘れてはいけないし、在宅で暮らすことの意味や意義を大事にして、その人の思いや小さな願いをどのように引き出し実現に向けていくか、丁寧に関わっていきたいと思いました。

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コラムニスト紹介

是枝 祥子

大妻女子大学 名誉教授

プロフィール

昭和39年東洋大学社会学部応用社会学科卒業後、児童相談所、更生相談所、特別養護老人ホーム、在宅介護支援センター、ヘルパーステーション等、数々の現場勤務を経験。

1998年より大妻女子大学人間関係学部人間福祉学科教授で同学部の学部長も務め、現在は同大学名誉教授。

介護職員の研修をはじめ、多くの介護人材育成に携わる。

著書・出版

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