へるぱ!

今なら語れる「障害を越えて」

第11回 あなたと歩いた88札所

 四国お遍路を一度だけ真夏に体験したことがあります。「歩きお遍路」をするつもりでしたが、その年はとても暑く、「高齢者の歩きは危険」と判断し、途中からは自動車で義兄との「同行二人遍路」となりました。

 ちょうど同じ頃、NHKテレビで「四国お遍路」を扱った番組が放映され、88札所を懐かしみながら視たものです。BGMは「シンセサイザーの喜太郎・シルクロードのテーマ」。確か、お遍路中のケーブルカー内でも流れていたと記憶します。以来、お遍路に行った気分で繰り返し曲を聴き、結願した回数もすでに100回以上となりました。

 当時は自己流で感じたままを短歌に詠んでいました。この「コラム」もあの頃の自分を思い出しつつ、シルクロードのサントラを聴きながら書いています。ぜひ皆さんも曲を聴きながら、この「コラム」を読んでみてください。より一層、お遍路の旅が楽しくなるはずです。

 短歌の前にある数字はCDのトラック番号です。(参考:喜太郎 シルクロード(絲綢之路)、株式会社ポニーキャニオン PCCR.50035)

 私の視覚障害は定年半年前の出来事で、生きる望みを失いました。

  1. 突然の 光失い 生きるには 故郷見捨て 遍路にたくす
  1. ほたるには 一つ一つの 闇があり 悩める我が身 元気頂き
  2. 坂東の 駅に降りても 神の声 いまだ聞こえず お遍路の旅
  3. 木陰にて 地図をひろげて さがす寺 ゆれる日差しは神々踊る

 お遍路での最初の難所が「遍路ころがし」です。白い杖の私に山道は無理なので、少し遠くはなるものの、バス路線を歩くことに。途中、手押し車(シルバーカー)に荷物を乗せ、孫の難病回復を祈念しながらお遍路する腰の曲がった老母と出会いました。

 話しを聞くと、手押し車があるため自動車道を歩き、寺の階段下に手押し車を置き階段を登って参拝するそうです。私の苦労など小さい、小さい、と反省しきり。

  4. 神様は 高い山から 見下ろして 迷える人の 顔をあげさせ
  5. 歩きこそ ご利益あるが 暑さ負け 乗物に替え 願いもへらす
  6. のぞく井戸 我が身写れば 極楽へ 覗いて兄に 結果をとうて

 次の寺まで遍路距離は一番長くて、なんと40㎞。遍路左手には、太平洋の青い青い海が続く場所です。その途中、大きなツヅラ籠を背負った、修行遍路をする若い僧侶と出会いました。

 立ち寄るお寺で2、3日お世話になり、朝夕のお勤めをして、他人からご飯を頂き、皆の悩みと人生の大役を知るためのお遍路をしているとのこと。葛籠の中身は「経本と野で寝泊りするための道具、檀家から頼まれた願いの色紙」。結願までにはまだ数ヶ月かかると話してくれました。

 一方、私はというと「よくぞここまで1人で苦労を乗り越えた」と満足していましたが、またしても自己本位な考えに甘さあり。反省、反省。

  7. わが歳と 同じ歳寺 辿り着き 試練に耐えた 自分を誉める
  8. 石段の 手すりを辿り 登り行く 助けの手すり 誰かと思う

 今度は温泉町で犬と散歩中のお遍路さんと遭遇。聞けば、「この子(犬)は盲導犬としての大役を終えたところ。元主人とお遍路した事を聞いて、懐かしむ思い出になれば、とこの子と共に今この地を歩いているのだ」と話してくれました。

 盲導犬は全神経を使い、自由を犠牲にして長い間ご主人様に尽くす過酷な毎日を送ります。役目を終えた後は、犬を愛する人に引き渡され、余生を楽しみます。真夏の暑い中、接待で私をもてなす知人に会うたび、私の勤めは本当に終わったのだろうか、やるべき事を何か忘れてはいないか、と考えさせられます。

  9. 団体の お遍路去りて 線香の 匂い残して 蝉鳴き始め
10. かき氷 自家製蜜の 接待で 冷えた器へ 手を添え渡す
11. やれ着いた 老婆と同じ 結願寺 歳の差あれど 願いは同じ

 今も高野山奥の院では、毎日お勤めする弘法大師の朝食を修行僧が膳を担ぎ御廟へ運び込みます。後を読経と下駄の一団が音をたてて通り過ぎて……。

12. 神々が 集るお山 高野山 神様多く 頭上がらず

 人間生まれた時から死ぬまで悩みがあり、これを超越して他人のために祈りを持てるかがお遍路らしい。そうならば、私は未熟者、単なる札所巡りで終わったとも言えます。

 今の時代だからこそできる新しいコラムの楽しみ方、いかがでしたか? 最後の曲は、広い広い砂漠の中、光を求める自分の姿を想像するようでした。

 メロディーにのせて「私と歩いた88札所」。

 同行援護されたあなた、何か感じたことがあれば幸いです。

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コラムニスト紹介

山田 猛

ガイドヘルパー(視覚障害者)

プロフィール

1941年 中国・元満州国安東省生まれの引揚者。

1969年 立正大学経済学部を卒業後、運輸会社へ入社。航空貨物部門で海外宅配便と新規事業開発で書類宅配便クーリエサービス業務の立上げの責任者となる。のち、ISO品質管理室長として全国支店を飛び回り指導に励む。また会社品質向上を担当。

2000年9月 定年半年前に角膜移植手術を受けるが、移植に失敗。強度の視力障害を持つ中途失明者となる。
定年後、第二の人生設計を立てていたところに抱えた大きな障害。生きる希望をも見出せず失望の淵に立たされた時期を乗り越え、現在、同じ境遇の人たちを救うため介護福祉について勉強中。

介護を受ける立場にかかわり、介護をされる皆様に何を求め、また考えているかを視覚障害の症状、環境変化がありすべての方の問題とか解決策とはなりませんことをご理解頂き、あくまでも私個人として利用者が感じた点を記述してみたいと思います。

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